|
京劇の基礎知識 1.京劇事始 京劇が映す中国の近、現代史 中国近、現代史と共に歩んできた京劇の歴史。 京劇は伝統演劇として中国の文化を内包する一方、演劇として確実にその時々の時代を映してきた。中国の近、現代史はまさに激動の歴史である。以下、ものすごく大まかではあるがその流れを追う。
1790年頃〜1840年頃 清代 政治と文化の中心である北京という土地で、皇帝という政治的パトロンを得て、地方劇が融合し、一般大衆によって育て上げられた。 1840年頃〜1910年頃 欧米との交易が徐々に盛んになる。 1840年、アヘン戦争勃発。欧米諸国が中国を半植民地化し始める。 西太后が清朝の実権を握る。 1910年頃〜1930年頃 1911年、辛亥革命が起こる。中華民国が成立し、清朝崩壊。中国は近代に入る。 第一次世界大戦の勃発。終戦後、列強支援による中国国内の軍閥戦争の激化。国権擁護と民事促進を求めて1919年に五四運動が起こる。 蒋介石が北伐を行う。のちに国民政府主席になる。 毛沢東が江西省井崗山に共産党革命本拠地を樹立。 1930年〜1949年 1931年、満州事変勃発。 中国の国土は日本軍による淪陥区、国民党による国統区、共産党による解放区と分かれる。 1945年、日本の敗戦後、共産党と国民党が雌雄を決する戦いを繰り広げ、共産党が勝利。 民衆に対して最適なプロパガンダであり、教化手段として日本軍、国民党、共産党それぞれが京劇を重視。 抗日の意志を示さんと舞台を降りる俳優もいれば、過去の物語を題材にどんどん新しい芝居をつくって民衆を励ました俳優もいた。 建国後、国内の安定とともに戦火を逃れて非難していた俳優たちも北京に戻ってくる。 1949年〜1956年 建国間もない混乱期を経て、政治的にも経済的にも徐々に安定期に入る。これを受けて毛沢東が言論や思想の自由を認める「百花斉放、百家争鳴」運動を提唱するが、予想以上の党批判と反動を受けて再び調整期に入る。 共産党の指導のもと、思想、風紀を正す目的で戯曲改革が始まる。 1956年〜1966年頃 毛沢東は理想とする社会主義のために集団化を推進する人民公社の成立と大躍進政策をとるが失敗。飢餓による人口の減少と深刻な経済危機に陥る。 毛沢東に代わって劉少奇が調整政策をとって回復を目指す。しかし、それを修正主義と受け止めた毛沢東は、夫人・江青ら「四人組」主導による階級闘争を奨励し、時代は文化大革命へと突入する。 演目の整理、役者の思想学習、演劇界の制度改革といった「改戯・改人・改制」をスローガンとして、勉強会や会議が何度となく開かれ、学校や研究所、劇団が設立される。 社会主義運動、文芸批判が始まる。 大衆の娯楽であった京劇は政治の極左方向への流れとともに思想教育の手段へと変貌を余儀なくされ、伝統文化を全面的に否定する文化大革命の矛先を真っ先に向けられる。 1966年頃〜1977年頃 1971年、毛沢東暗殺及びクーデター未遂事件 1972年、日中国交正常化 1976年、周恩来死去。その死を悼む群衆が天安門に集まり、文化大革命への不満が一気に爆発。第一次天安門事件が起こる。 その後、混乱を収拾し、疲労した経済を立て直すために中国は改革開放経済政策をとる。中国的社会主義の名のもと、実質的市場経済が導入され、成功し、飛躍的な経済的発展を遂げていく。 有産階級が搾取していた旧社会を壊し、無産階級を鼓舞する思想のもと、舞台を才子佳人が彩る伝統劇は上演禁止となる。舞台は革命現代京劇「様板戯」(模範的な演劇)一色になる。この10年間に多くの文人、俳優が断罪された。 文化大革命の終息後上演が禁止されていた伝統劇が復活。娯楽自体が少なく、舞台も革命現代京劇だけで飽きていた一般大衆は劇場へ殺到する。 現在、改革開放の波によって世界に向けて窓は開かれ、外国の文化が大量に流入し、価値観が多様化、娯楽も多様化している。 京劇は政府によって中華文化の精華として認知されている。伝統劇の上演が主流だが、かつての時代に慣れ親しんだ老人たちは満足できない、中高年にとって京劇といえば共に育ってきた革命現代京劇のことでなじみが薄い、若い世代は見ても解らない、といった状況で京劇は今の時代の在り方を模索している。今も尚、時代と共に変化しているのだ。 |
Copyright(C) 2002-2005 meiyuan
2002/09/01